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「親子酒」という新橋の盛り場の思い出

親父の話

親父は、今は定年退職で会社を辞め、現在は悠々自適で家にいるが、現役の頃はNTT、昔の電信電話公社で、東京千代田区大手町に事務所があり、住居は大田区の六郷土手に構えていた。
当然ながら私鉄、国鉄(JR)を使っての電車通勤であった。 

時折、酒臭い匂いで家に帰ってくるが、家族への話をする時など、新橋で飲んできたことを語っていた。
 その時、新橋までは東京駅から仲間と歩いていって、新橋駅前の飲み屋街で飲むのが通例であったらしい。 
西口駅前には結構な盛り場があり、そこには面白い餃子専門店もあって、バナナくらいの大きいのがあり、これを2,3個食べると腹が張ってくるとも言っていた。



さて筆者の私の話である

会社こそ異なっているが、筆者の私は現在丸の内(丸ビル)にて勤めていて、やはり親父の血を引くのん兵衛で、仲間を誘っては(誘われたり)同じく新橋界隈で飲んでいるのである。 

それも、勤務先から歩いて行くのである。 親父はどっちの方角を歩いたか定かでないが、私の場合は仲間と飲むときは、まず、皇居外苑の松の緑に囲まれた内堀通りを歩き、二重橋や桜田門を右手に見ながら、日比谷公園の緑の中を横切って新橋にいたります。
 一方、八重洲のほうからだと東京駅を横切って、京橋、銀座の四丁目から九丁目の水の上に映るネオンのキラキラした灯りを見ながら散歩し、新橋まで行くのである。 



新橋のガード下の居酒屋で

われわれのお目当ては主に新橋のガード下の盛り場で、おでん屋に始まり、いろり焼き、焼き鳥屋などその日によって決まっている。 
そして、給料後(とは言っても今は振込みですけどね)で懐のあったかい時は一寸かわいいお姐さんがいるカウンターバーで一時を過ごすなど、結局は親父と同じ事をしているのである。

今は、西口駅前はオフィス街になっていて昔の面影は無いみたいだが、親子共々、新橋にはお世話になっている。

有難い場所である。 
今の新橋は時折、テレビのニュースの場面などでも出てくるが、JRなどの路線の下にはガードと言ってレンガ作りのアーチ型の画面をよく目にしますね。

レンガ造りのガード下の直ぐ近くが、我々の目的の地であったのだ。



新橋駅周辺の今昔

「汽笛一声新橋を・・」と鉄道唱歌にも歌われているが、新橋といえば日本で初めて品川駅まで初めて蒸気機関車の鉄道が走った場所でありましたね。 
新橋に関する今昔物語の本を読んだことが有りましたが、新橋という名称は昔は付近に汐留川が流れていて、其処に街の発展を期待しながら架けた橋の名を「新橋」といって、今の新橋の名前がついたとされています。 

昭和の中期頃までは、駅界隈は未だ個人市場やバラックの建物でマケットや一杯飲み屋が並んでいたらしく、何でも東京がスモックなどでよごれていた時分は、電車が隅田川に差し掛かるとヘドロの匂いがしたし、又、新橋の駅付近に達すると「焼き鳥」の香ばしい匂いがした、ともいわれているようでした。 

さすがに今ではマーケットは新橋ビルにかわって、全てが様変わりしましたね。

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