母
出産
僕はあっという間に、この世界にやってきたらしい。あっという間というのは、母が陣痛を起こし分娩室に入ってわずかニ時間半後に生まれたからだ。
もちろん僕にその記憶はないから、これは母から聞いた話だ。
「あんたは簡単やった」事あるごとに彼女はそう言った。
まるで大きなプロジェクトを自分一人でやり遂げた、やり手のビジネスウーマンみたいに。
そう言う時の口角の上がり方が、なんだか僕は好きだった。
それを彼女に伝えたことはないけれど。
母はずっと独りだった。
文字通り独りだった。
父と別れ(これも僕は知らない)、僕の母としてだけ生きてきた人だ。
よく、子供は親の背中を見て大きくなるというけれど、僕は幼い頃毎日、母の背中を見ていた。
そこに書かれた文字を。
台所に立つ母の背中にはこう書いてあった。
「あんたの為に生きる」と。
僕はまた、その背中を見ている。
書かれた文字は同じだが、湾曲して文字が潰れている。
変わらず後ろでひとつにまとめられた髪の毛は、グレーのシャツに同化している。
「かあさん、お腹すいた、なんかある?」
「あんた、突然来てそんなんいうても、なんもないで。ほんま勝手なやっちゃ。」
そう言うと母は、振り返らずまっすぐ冷蔵庫へ歩いて行き、そこからタッパーを取り出して僕の目の前に置いた。
タッパーには唐揚げが入っていた。
我が家では定番の、ささみを使ったカレー風味の唐揚げだ。
「揚げたてちゃうんかい」と思わず言った僕に、「なんもない、言うてるやんけ!」とすぐに返した母の口角の上がり方に、僕はなんだか見覚えがあった。