ユーモアのある小説の書き方について
そもそも、ユーモアのある小説とは何だろうか?
皆さんは、ユーモアのある小説、と聞いたときになにを思い浮かべるだろうか?読み出したら思わず笑いがクスリと漏れてしまうジョークが散りばめられた文章、あるいはお笑い芸人のコントのような早口でまくし立てる会話の応酬。
ひとによっては面白い、ユーモアのあるように見える文章も、ある人にとってはそうでなかったりする。
では、その『ユーモア』とはそもそも何だろうか。
小説におけるユーモアの意味
ブリタニカ百科事典を当たってみると、ユーモア(humour)という言葉は本来、湿気や体液という意味がある。古典医学から来た言葉で、かつて人間の性格は四つの体液によって基本的な性格が決定されていたという説(体液病理学)がある。
邦訳としては『有情滑稽』という言葉が当てられているが、イメージとしては知的な面白さ、というよりも人間の情に訴えかける類の面白さを指している。
では、ユーモアのある小説とはどのようなものだろうか。
ユーモアのある小説はどこから生まれるか?
先ほど述べたことを思い出して欲しい。ユーモアの語源の由来は『体液』である。
人間の身体中を巡るものとして、そのうちのひとつに血液がある。
血が通った文章、という表現を耳にしたことはないだろうか。
そのひとの人間味、人情がよく現れているときに使われる表現だが、ユーモアのイメージにおそらくかなり近いものと言えるだろう。
そういう文章を読んだ時、読者は文中の登場人物、あるいはそれを書いている書き手そのものに強い親しみを持つ。
作者も登場人物も、読者からは決して手の届かない高嶺の存在ではなくて、読者である自分と同じように、日常の些細なことでつまずいては、泣いたり笑ったりする、同じ地平にいる人間のように感じられる。
血の通った(ユーモアのある)小説は、読者の人情を必ず汲んで書かれている。
小説におけるユーモアの効用
小説におけるユーモアの効用は、読者と登場人物(または書き手)との距離を縮める、というものである。読者が作中の人物に感情移入することを手助けするのだ。
例えば、箇条書きのような機械的な文章の羅列を見たとき、それで読者の感情に訴えかけられると想定するのは難しい。
ユーモアの反対にあるものは、機械的な反復、事務的に内容を伝えることのみを目的としたもの、言い換えれば、まったくひとの血の通っていない(冷たい)と感じられる文章だ。
ユーモアには理路整然としたものはなく、むしろあるのは矛盾や混乱したシチュエーション、混沌としたところからユーモアというものは生まれてくる。
日常の会話の中で笑った時のことを思い出してみてほしい。
そこには普段にはないシチュエーションだったり、なにか矛盾したことを聞いた時に笑っていたりするのではないだろうか。
そしてそういうことを聞いた時に、その人物に親しみを覚えなかっただろうか。小説の中でも同じ作用が起こっている。
小説においてユーモアの現れやすい場所、会話文
小説においてユーモアが最も息づく場所とはどこだろう。実は会話文の中に、それは最も生まれやすい。
会話文は、ある意味では登場人物たちが心情を吐露することのできる数少ない場面だ。
特に一人称小説ではなく、三人称小説では視点人物の心中を打ち明けることは難しくなっているため(主人公が思ったり考えたりしたことを、地の文で書くことは基本的にできない)、それが唯一、許されているのは会話文においてのみである。
地の文章でユーモラスに書くことは非常に難しい。
読者の感情に直接的な方法で訴えることが、小説の構造上、作者には許されていないからだ。
一方で、読者は会話文を、いままさに目の前で交わされている会話として読む。
ある意味では会話の始まる鉤括弧(「)がはじまった時点から、漫才であればもう既に舞台に立っているようなものだ。
どうしたらユーモアのある小説が書けるのか?
ユーモアのある小説を書こうとするのなら、まずは書き手が何に対してユーモアを感じるか、知った方がよい。具体的には、普段の生活で笑った時のシチュエーションを覚えているといい。
会話文が巧い作家は、よく耳がいいと言われている。
現実に交わされている、これは、と思う会話にきちんと耳を傾けて聴いているからだ。
そういった裏打ちのもとに書くことができれば、あなたの書く会話文には、現実味のある、それでいて面白い、ユーモアのある文章に近づくだろう。